加速器系1号館1階の西側の部屋であった。この建物は、KEKの加速器の中でも一番古い建物であり、最初にKEK PSを建設された方々の大半が、この建物にかつて生活していた。午後の日差しが窓から差し込んでいた。低いテーブルをはさんで、黒色のソファーに我々は相対した。Y氏は、その厚い眼鏡の奥の目を光らせながら、こう切り出した。
「ハドロン計画の加速器のデザインを新たに作る事になった。ワーキンググループの形で、広く人材を集める方針です。ついては、リニアックを加藤さんにお願いできますか。これは西川所長の意向でもある。」
「私は自分のデザインを公表しているが、あれに沿った形でよいのか」
「そうです。シングルはやめる事になりました。ただ、エネルギーとか周波数とか、これらは全体の構成とあわせて、これから決める事になると思います。」
「それでいいと思います。最終的な仕様が決まらなければ、リニアックは決める事ができませんから」
「そこで今悩んでいるのが、リニアックのエネルギーです。1 GeV (1000 MeV)リニアックは可能ですか」
「即答はできませんが、出来ないという事はないと思います。ロスアラモスは800ですから。但し、相当に難しい事は覚悟しなければいけません」
「リニアックで大事なのは、高周波源だと思います。それはAさんにお願いしたいと思っていますが、どうですか」
「私は直接の面識がないのでよくわかりません。ただ残されていたPSリニアックの電源の保守をした経験から言えば、Aさんが担当であった電子管用の電源を作った当時は、相当にお金がなかったものと推定できます。長年の保守作業の経験から、次期リニアックには電子管は使いたくないと考えています。クライストロンが適していると思います。」
「私もそう思います。その意味でもAさんを引っ張ってくるのが重要と考えています」
引き続いて、当面の仕事の進め方、このワーキンググループに推薦する必要な人材等について、話をした記憶がある。
こうして、次期陽子加速器計画のこれまでのプロジェクトチームは解散となり、Y氏のもとで新たなワーキンググループが発足する事になった。リニアック部門について言えば、私の反論により、単細胞空洞プロジェクトは粉砕されたという結果となった。私の考えでは、自己破産に近いものがある。もともと西川所長はリニアックに造詣が深いのであるが、私のレポートまで読んでいただいていたという事で、実は相当にびっくりした。実力者のL先生を批判したのであるから、これを覆すには、上司である西川所長しか考えられなかったのであるが、所長は、所長職の仕事で相当に多忙であろうから、末端のレポートまで目を通すのかいなという不安があった。これしかないという一点の賭けに出るより外なかったという事である。
その後について書いておこう。
G教授はハドロン計画に参画する事は実質的にはなかった。後年、私が昇格するときの推薦状を依頼しにお伺いしたところ、丁重に断られた。
M氏は、その後リングの仕事に戻られ、彼もリニアックに参画する事はなかった。その後の仕事ぶりは、現在のstatusに表れているのだろう。助手のC氏は、その後直ちに米国へ留学して長く戻らなかった。途中からリングデザインを始めて、一時期J-PARC リングデザインにも携わった。何も実績のない助手が長期にわたり海外へ行く事は当時としては異例であったから、かわりに義務としての仕事をまわされた人々の批判は弱くはなかった。L先生は、その後も力を発揮されて、J-PARCにも尽力されている。
Y氏と私の最初の出会いと西川所長のお墨付きという経緯は、その後のY氏と私の関係の重要な基盤となった。後年、Y氏が基本的なデザイン等に関して私と違う意見を持つ事になり、それはしばしば先鋭な対立を生んだ。結果からみると、そうした問題では、Y氏が私の意見に完全に従うという状況が続いていた。正攻法で争う限り、マネージャーとしてのY氏がデザイナーを論駁する事は無理だったのである。Y氏に反論する場合に、それは管理職の裁量権の範囲外であるという反撃もした。科学的技術的でない事を理由にするなという事である。後年、J-PARC建設が始まり、陽子リニアック関係の殆ど全ての重要で難しいデザインが終り、製作が軌道に乗った時に、Y氏は積年の私への気持ちを爆発させる。16年の歳月が過ぎてからの事である。