1. 軽い電子を加速する電子加速器と、
2. 重い(電子の約1800倍の重さがある)陽子を加速する陽子加速器である。
KEK では、1973年に陽子加速器が完成し、1986年に電子加速器完成となれば、次期加速器計画は陽子であろうという事で、関係する人々の間では、次期陽子加速器計画が早い時代から検討されていた。一方、当時、東京大学原子核研究所(略称:核研: INS)は、加速器の主力メンバーがKEK建設の為に移動して抜けてしまった事、実験の主力メンバーもKEK PSの実験に移った事により、ほそぼそと稼働されてはいたが、予算状態からみても、いつ閉鎖されてもおかしくはない状況であった。核研に残留した人々の中で、一部のグループは、陽子よりも更に重い原子核(重粒子)加速器建設計画(ニューマトロン計画)を打ち上げ、他のグループは、日本の次期陽子加速器計画に参加しようと、大型の陽子加速器計画を打ち上げていた。加速器研究者と、加速ビームを使うユーザーがまとまって計画を立てるという意味では、この時期、陽子加速器の将来計画の主導権は核研が握っていたといってもよい。ただし、加速器建設の人材等のスタッフは不足していた。
KEKにおいては、PS陽子リニアック保守の責任者となっていた福本教授を中心に、次期陽子加速器(リニアック)の案が練られ、それが研究論文として1986年に発表された。
大ハドロン加速器計画提案書 p.182、1986年、
私は、これらの論文の共著者からは漏れていた。何故私が抜けていたかについての説明の前に、当時のKEK 陽子リニアックグループについて概観しておこう。1974年にPSリニアックの建設が終わると、すぐに次期放射光電子加速器(フォトンファクトリー: PF)の建設が現実化して来た為に、陽子リニアックを建設した主力メンバー(田中、馬場、穴見等)は、PF(フォトンファクトリー)の電子リニアック建設グループ等へと移動していた。叉、PS リニアック建設に参加して大きな貢献をされた多くの若手の方々は、理由はわからないが、他のセクションへ移動したり、他大学へ転出されていた。そこでPS陽子リニアックの保守は、それまでイオン源建設に従事されていた福本教授が行う事になり、その手勢として、1980年に助教授1名と助手1名が募集され、私は、その助手として赴任したという事になる。私が赴任してから5年の間に、新しいスタッフにより、KEK陽子リニアックは2倍の長さに延長され、そのエネルギーは20 MeVから40 MeV へと2倍に増強された。これは、リニアックビームのエネルギーが高くなると、このビームを受け入れる次の円形加速器(ブースターシンクロトロン)において、ビーム電流を増やす事が期待出来るという事から、増設期間約半年の工事で1985年に行われたものであった。
ところで、筆者はKEK加速器研究系の助手として1980年に赴任以来、20 MeV リニアックの運転と保守に従事しつつ、延長用の40 MeVリニアックの設計と製作を行った。このリニアックの設計は、デザイン用のコンピュータコードの開発から実際の設計まで、全てを一人で行った。また、実機を作る前のモデル器の設計、製作、測定、実機のチューニング等も、途中から大学院学生一人の参加はあったものの、空洞のデザインとチューニングに関する部分は実質的には一人で行ったと言っても過言ではない。この状況は単に、他に手伝ってもらえる人がいなかったという環境によるものである。
驚いた事には、リニアック部門に赴任した当初、既に稼働している 20 MeV陽子リニアックに関する設計デザイン等に関して、具体的に役だつもので手に入るものは皆無であり、単なる概要に過ぎない研究論文が手に入るのみであった。実際にリニアックの寸法等のデザインを担当された方は、既に遠方の国立大学に転出されており、収束磁石等の測定などを担当された方は、KEKの全く別の部門に移っており、指導的な立場にあった教授連は、新たな電子加速器製作のために別の部門に移り、とどまっておられた助手の方は、独自の道を行かれる方であり、要するに廻りに指導してくれるような人が誰もいなかったのである。即ち、自分の今までの知識を基礎に、すべてをゼロから始めなければならない状態であった。1980年に赴任してから2ヶ月位の間に、私は、リニアックビーム加速に起因する加速空洞内電場の位相変化を測定して、夏のリニアック研究会に発表したが、その実験を始める前に周囲からどのような忠告を受けたかは、書き留めておく価値がある。
曰く、
「リニアックはパルス運転をしており、ノイズがひどいので、そのような微小な変化は測定できるはずがないので、やめた方が良い。実際、これまで試みてみたが、測定出来なかった。」
私の大学院での仕事はマイクロ波分光であったので、微小な高周波電力測定はどうすれば良いかについて少しの知識はあった。忠告はありがたいが、リニアック運転の為には是非とも必要と考えてやってみると、非常にきれいなデータがとれる(参考資料)。普通の注意をしてセオリー通りの扱いをすれば、なんの事はないのである。逆に、私の方が、一体これまでどういう測定方法をしていたのかと不思議な感じがしたものであった。この結果は、西川先生の加速空洞励振の有名なモデルを使って解析して、アメリカの学会に投稿した。
さて、デザインの為の基礎的なツールが何もない状況下で、いきなり3年後にリニアックエネルギーを2倍にする延長の担当になってくれないかと言われた時の重苦しさがわかるであろうか。スタッフ構成からみて当然とはいいながら、何もない状態からのスタートであり、期限が決まっているのである。しかも、加速器の性能は、ビーム加速という実証手段があるので、多くの夢を追うばかりの他の学問とは、まったく厳しさが違うと考えていた。
加速器は電磁気学に乗っ取っている。従って、電磁気学の基礎から出発して、加速器理論を学び、同時に、実際にデザインする為にコンピュータコードを書くという作業が始まった。幸いな事に、途中で、それまでのリニアックデザインの為にアメリカのロスアラモス国立研究所で開発されたコンピュータコードを持参してくれた外国人研究者がいた。しかし、今と違って、解説書はまったくなく、サブルーチンがようやく読めるかどうかというレベルである。しかも、これらの外来コードは、ソフトウェアの専門家が当時の低いコンピュータの能力をできる限り高めようとして、機械語とかビット演算子を駆使しているために、マシンが違うとほとんど動かなくなってしまうのである。まず、コードの解読を行い、それが物理的に正しいかどうかを調べ、きちんと働かせる事、それが当面の急務であった。
当時のコンピュータ事情は、今から思えば想像に絶するものがある。計算センターに大型計算機があり、そこに端末が並んでいた。そこまで出向いて端末の前に坐ったものである。暫くすると、私の研究室がある加速器2号館の5階のエレベータの前に端末が設置された。夜の11時を過ぎるまで、私はその端末の前で作業をした。冷暖房がない所でよくやったものだと思う。1982年ころである。計算センターの方々には色々とお世話になり、感謝している。