: 7.2 ロシアからの研究者とSDTLメッキに関する波瀾 六月(in construction)
: 7. 研究日誌 一九九七年 JHF建設発注前夜 (一部作成中の節を含みます)
: 7. 研究日誌 一九九七年 JHF建設発注前夜 (一部作成中の節を含みます)
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1997年は、新旧二つのリニアックデザインが交錯する複雑な時期である。リニアックグループが初めて取り組んだ低エネルギー入射部のリニアック試作器は、アセンブリーホールに並べられ、ビーム加速実験が行われる段階であった。
ところが、ビーム仕様の変化と、開発結果の総括とから、大幅に変更された新たなリニアックデザインが策定され、私は、そのデザイン、仕様書書き等に忙殺されていた。新しい周波数と新しい加速管(SDTL)の採用が決まり、これをどのような製法により製作するかも大問題であった。
折しも、積年の願いであった大強度陽子リニアックの開発研究費が予算で認められそうであるとの観測が流れ、その意味でもグループ内のボルテージは上がっていた。
この時期、ロシアでは、研究所に配分される国家予算がなくなり、研究所は自活する必要が生まれていた。その為もあり、ロシアから優秀な研究者が西側に流出する。リニアックグループにも、常時数人のロシア人研究者が招かれる事になった。これは、共同研究という意味は勿論だが、人助けの意味も相当にあった。そんな事から、山崎氏は、ロシアの研究所が持つ製作工場を安く使えないかという誘惑に捕われたと思われる。ただ少し考えれば、斜陽の所に、優れた仕事を期待する事は無謀であるとわかるのだが。
更に、中国でも加速器の開発が軌道にのり、リニアックグループに人が派遣されて来た。彼等は、中国の研究所ではエリート達であり、例外なしに極めて優秀であった。勿論、ロシア人研究者の優秀さは云うまでもない。
山崎氏はリニアックグループのリーダーであったが、それまでのリングの加速用の空洞製作の仕事にも携わっていた。それは、Bという名前で呼ばれていたプロジェクトの一環である。Bの性能向上は、世界との激烈な競争渦中で行われていたので、よそ目には、多くの無理筋を通していた。それらを云い訳として認めるか、あるいは認めないかは議論の別れる所であろう。山崎氏にとっての緊急課題は当然ながらBであったから、そこに強引な手法の下地があった。
: 7.2 ロシアからの研究者とSDTLメッキに関する波瀾 六月(in construction)
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